垣内裕志 のこれまで

日本におけるJAZZ音楽の歴史

今日では、楽器やCD制作、音楽のレッスン料他、破格で誰でも出来ますが、当時は、お金持ちでないと楽器はおろか、師事する講師のレッスン料があまりにも高額で、一般市民が音楽をすることは厳しい時代でもありました。また、ジャズミュージシャンの多くは、幼少期からクラッシック音楽がベースにあり、その延長線上にあるのがジャズというジャンルでした。
まさに、紳士・淑女でないと入れない、上流家庭の社交界が中心に発展した業界でした。
だからこそ、社会的信用もあり、収入に於いても医者や弁護士よりも音楽家がはるかに上回る時代でした。映画「嵐を呼ぶ男」の石原裕次郎さんとドラムバトルされている笈田敏夫さんもその一人です。

 

<日本音楽家ユニオンの発足から反核ジャズの会>
時代の流れで、業界の仕組みもどんどんアメリカナイズされて行き「日本音楽家ユニオン」が出来ました。日本音楽家ユニオンは、1983年に日本演奏家協会と日本音楽家労働組合が合併してできた組織です。
私は23歳の時から数年間中央支部の委員として関わりました。
きっかけは「赤坂ミカド」でお世話になった伝説のテナーサックス奏者、芦田ヤスシさんが日本音楽家労働組合の委員長であり、彼から誘われた事がご縁でした。
有名なスタジオミュージシャンやクラシックの演奏者、作編曲家、キャバレーやクラブの演奏者、音楽事務所関係者など、当時としては音楽関係の最大の組織でした。
後ろ盾を持たない音楽関係者にとっては、日本音楽家ユニオンと言う組織に属することで、お互いにお互いを守り合うと言う、役割がありました。
また同じ時代に、反核日本の音楽家達という会の流れを汲んで「反核ジャズの会」が始まりました。
小説家の芥川龍之介の三男で、日本著作権協会の理事長を務める有名な作曲家、芥川也寸志さんが、世界平和のために始められた運動です。
私はそこで会の発足から最後まで世話人(会の運営委員)としても携わりました。

 

<華やかなJAZZの世界の終焉>
1988年出版の「新・世界ジャズ人名事典」Swing Journalには、1985年・1986年までの日本や世界で活躍していた(故人も含む)ジャズミュージシャンたちの名前が掲載されています。
当時の私も、バンドを4つかけ持ちしながら「森寿男とブルーコーツ オーケストラ」のメンバー垣内裕志として、20代で名前が掲載されたことは大きな喜びと自信につながりました。
音楽を通して平和や音楽家自身の労働条件を確保するなど、日本のエスタブリッシュメントの子孫で尚且つ、戦争体験を持つ先輩たちが作ってきた音楽家の世界は、パワーがあり本当にすごい世界でした。
しかし、そんな時代も社会の流れに潰されて行き、降下傾向にあった時期に岡田代表から靖國神社での仕事依頼がありました。

 

<靖国神社音楽法要>
2003年、友人から「法律等・音楽著作権に詳しい人を探している人がいるので、紹介したい」というお話があり、その人物が、現在のサークル・ダルメシアンの岡田ユキ代表でした。
岡田代表は、靖國神社で歴史上初の「音楽法要」の総合プロデュースをすることになり、すでに多方面に渡ってスタッフを集めていましたが、私もそのメンバーの一人として参加させて頂いたことが、後にサークル・ダルメシアンに関わるきっかけとなりました。
私は、これまで楽器演奏(ベースプレイヤー)以外にも、音楽業界に付随する仕事は手広くやっており、大きなイベントには慣れていたものの、岡田代表の仕事に対する姿勢は大変厳しく、尚且つスタッフへの行き届いた気配りとこれまでの仕事で体験した事のない心地の良さで、やりがいのある楽しい仕事でした。
靖國神社の歴史に関しても、参加するまでは殆ど気にしたこともなく、幕末の坂本龍馬や吉田松陰、軍人や民間人、そして常に問題視されるA級戦犯(戦勝国が決めた)や外国人なども合祀されていて、歴史の重みを感じたのと同時に、その全ての英霊が、国民の中から岡田代表を選んだことに、最も驚きと衝撃を受けました。
この靖國神社での仕事が、私にとっては現実の社会問題に目を向けさせるきっかけになりました。
当時は、小泉総理の時代で、2004年1月から自衛隊のイラク派遣が決まっており、国民の不安が高まる中、上層部は「戦死者を出した時には英霊として靖國神社に合祀を」と、そんな話まであったようです。

「靖國神社音楽法要・映像」  https://youtu.be/gt_-HnWglVw

私が音楽業界、特にジャズ・ミュージシャンとして仕事をしたのは、1980年代の学生時代(19歳)がスタートで、戦後の復興も落ち着き、銀座や赤坂などは特に活気にあふれていました。
当時のミュージシャンも蒼々たる顔ぶれで、戦後日本の音楽業界を作った大御所達でもあり、彼らの多くが皇室関係者や日本のエスタブリッシュメントもしくは著名人の2世・3世でした。

 

<岡田代表の志>
岡田代表の思考や仕事に関する取り組み方は、私にとって懐かしい感覚を呼び起こしました。
その理由は、諸先輩方の考えと共通する部分が多かったからです。
「何故そのような志を持っているのか?」興味深く思い、その訳を知りたくなりました。

岡田代表は京都西陣で生まれ、音楽一家で特にクラッシック好きの父親の影響で、3歳から音楽教育を受けました。
ベビーシッターが都はるみさん(デビュー前)だったことから、堅苦しいものからラフな音楽ジャンルへと広がっていったようです。
3歳で曲を作り、小学生になって、自分でデモテープを作り、都はるみさんのレコード会社の担当者に聞いてもらい、そこでプロへの道も開けましたが、両親の反対で流れました。
ユーミンやクイーンなどのサウンドに傾倒しプロではなく、趣味として音楽を楽しもうと考え、女性実業家として経営や事業全般に携わり成功した後で、ジャズシンガーとしてスカウトされ音楽の世界に入りました。
1960年代は、日本中で音楽文化が溢れており、GSにビートルズ・洋楽に歌謡曲・ナツメロ・演歌そして、母親たちは子守歌や童謡などを口ずさみながら子供と関わり、反戦歌的なフォークソングはありましたが、平和な時代でした。
見えない力に引き寄せられるように靖國神社の英霊によって出会わせて頂きました。

 

<Rock鳴館プロジェクトを目指して>
サークル・ダルメシアンの活動も大きく広がりました。
岡田代表の長年における研究が実り「MCM」という新たな形に発展したおかげで、数々の共同研究と組織を大きくすることが出来ました。
サークル・ダルメシアンが掲げる「いじめ・虐待防止の活動」は、人の心の大切さ、家族の大切さ、そして戦争が起こらない平和な社会を作ることを目指しています。

1996年から岡田代表が日本で初めて立ち上げた「虐待防止の活動」を後追いするような団体が多く出てきましたが、そこでは問題解決が出来ず、さらに深刻化させ紆余曲折を経て岡田代表にたどり着く方も多く、親子関係や夫婦関係、また人間関係の問題に寄り添って助けてきました。
そして岡田代表が描いてきた「新たな形の正しい音楽の世界」を私もサークル・ダルメシアンのメンバーと一緒に作りたいと考えております。

皆様、今後とも、よろしくお願い申し上げます。

音楽事業部・代表 垣内裕志

垣内裕志Profile

<演奏家経歴> 
★東洋大学・文学部哲学科在籍中より演奏家活動 
★立川基地、他、米軍キャンプ・オフィサースクラブ出演 
★赤坂ミカドオーディション合格・芦田ヤスシ(元ビッグフォー)カルテット・・1年在籍  
★十時音楽事務所所属・ジミー原田トリオ・・14年在籍  
★タカプロダクション・森寿男とブルーコーツオーケストラ・・1年在籍  
★北村英人事務所・北村英人クインテット・・1年在籍  
ABCプロモーション・尾形大作ツアーバンド・・2年在籍  
ABプロ(安部プロ)・美川憲一ツアーバンド・・2年在籍  
★その他・ジョーサンプル、サリナジョーンズ、ドリーベイカー、ジョージ川口、川口雷二、水森亜土、阿川泰子、等共演多数

<出演場所>     
★アメリカンクラブ  
★英国ヨットクラブ  
G7各国大使館・領事館専属  
★フィリピン大使公邸

<舞台監督>  
★稲取銀水荘他有名ホテル
★ベニーゴルソン・山岡未樹ヤマハホールコンサート  
★東急ジャズボーカル教室  
★靖國神社音楽法要
★他多数

<録音技術>   
★山川浩一 CD・ オータムインニューヨーク(雑誌「無線と実験」推薦盤)

<ディレクター>  
★柳沢伸之 CD Smoothing…  
★岡田ユキ 遙かなる時を超えて(NHK506スタジオ)収録
★他多数

CM制作、企画、音楽>  
★車のJACS
YAMAHA
★新日本銀行
★他多数

<映画>  
★哀川翔主演Vシネマ「力道山」・キャバレーベーシスト役

<テレビ>  
★音楽番組多数出演  
TBS50周年記念ドラマ「青春の門」・キャバレーベーシスト役

<海外アーティスト招聘業務>  
★ベニー・ゴルソン  
LAS VEGAS SHOW BIZ
VIVA LAS VEGAS  
ENCORE PRODUCTION AUSTRALIA  
VIVAS INTERNATIONAL UK
NYで行われたアーティスト発掘オーディションの審査員として渡米

<通訳業務>  
★英語
★スペイン語
★フィリピノ語